大分も竜馬ゆかりの地!?

t-ryoma2009-10-06

 個人的な感想で恐縮なのだが、西日本ではどうも各地で「竜馬ゆかりの地」と名乗りを上げて地域振興を図ろうとしているような気がしてならない。今回は滋賀県に続いて「大分」

(西日本新聞)によると、大分県龍馬伝」連絡協議会が発足し、地元の龍馬会など関係団体と関連してイベントや情報発信をしていくとか。

 まずは発会式が、竜馬が勝海舟が足跡を残したといわれる大分県別府市で行われた。集まったのは大分市佐賀関、鶴崎、野津原、竹田市久住町市民グループ郷土史家、観光協会関係者、別府大学教授ら。
 竜馬と海舟は鶴崎、野津原、久住を通る肥後(豊後)街道を経て熊本から長崎へ向かったいう調査結果が公表されている。


【この記事でじつは「なるほど!そうだったのか。」と自分の中で、竜馬と大分の関係がなかなか理解できなかった理由だ。記事では「竜馬と海舟の九州上陸の地は、司馬遼太郎の著書「竜馬がゆく」では佐賀県の「肥前伊万里湾」とされているが、「海舟日記」の中では大分の「佐賀関着船」(1864年2月)と記されている。さらに、佐賀関にある徳応寺(東光爾英住職)に、海舟と竜馬が投宿したことを明記した文書「日本人物誌」も残っている。(同記事抜粋)」とある。どうしても司馬さんの「竜馬がゆく」の印象が強くて、思い込んでいたのだと思う。おそらく司馬さんは長崎などの取材と竜馬関連の資料のみで小説のこの部分を書き、「海舟日記」のこの部分を見落としたのかもしれない。目的地の長崎にほど近い地からと考えるのが一般的だと思うし……。……ということで、次なる疑問は海舟はなぜ大分から長崎へ入ったのだろうか!? 推測の浅知恵だが、海舟は基本的に幕府の人間なのでこの九州北部の地域の視察の意味があったのか、それとも単純に海舟の船に弱いということがあったのかもしれない。】

(※画像は本文と関係なく、地元の秋の花火♪ 夏もいいけど秋もいい♪・笑)