竜馬の「赦免状の写し」と刀が公開!

庭の紅葉

文久3年(1863年)、すでに勝海舟の弟子となっていた竜馬。勝は脱藩した竜馬の身を案じて、兵庫から江戸への船旅の帰路、伊豆下田にいた宝福寺の土佐藩主である山内容堂を訪ね、竜馬の脱藩罪赦免を要請している。すぐに容堂は了承して、2月京都土佐藩邸で7日間の謹慎の後に、当月25日には赦免状が出ている。この赦免状の原本は見つかっていないようだが、今回その写しが県立坂本龍馬記念館高知市浦戸)に寄託されたそうだ。その際に竜馬も身につけたといわれる刀も寄託されている。


(読売新聞・高知版)によると、いずれも品も竜馬の親しい友人だった甲藤(かっとう)馬太郎(1838〜1900年)の子孫に伝わっていたもの。
 赦免状の写しは縦16.5センチ・横38センチ。文中の6か所に7文字の書き損じを直したカ所がある。これについて同記念館の三浦学芸員は「京都にいた甲藤家の人物か、龍馬と甲藤家双方に親しい人物が、甲藤家に知らせるために書いたのでは」と分析している。
 刀については、刀鍛冶・左行秀の業物で、刃渡り2尺6寸9分(約80センチ)。柄の下部分には龍馬の兄・権平が、嘉永元年(1848年)に造らせたという銘が刻まれている。
 異説はあるものの、馬太郎の甲冑と竜馬の刀を交換したとの言い伝えがあるため、龍馬自身が持っていた可能性が高いらしい。
 書状は開催中の企画展「風になった龍馬」で展示、刀も来年1月12日から始まる「龍馬のルーツ」展で公開される。


【なかなか興味深いニュース♪ 赦免状については、その実証の証拠になりそうだし、刀は坂本家のものであるのはたしかなので、甲冑と交換したという言い伝えの証明となりそう。ただ、竜馬が刀よりも甲冑が欲しかったというのはどうなんだろう!? 記事では竜馬が13歳ごろということだから、若気の至りかな(笑。ちょっと面白いエピソードではある♪】