海援隊士の中に佐幕派!?

■竜馬は現実的には江戸幕府を倒す働きをしたし、海援隊脱藩浪士たちの集まりで、倒幕派ばかりというイメージだが、じつは佐幕派の隊士もいた。

 それが小谷耕蔵(生没年不明)だ。
 越前出身で。慶応二年(1866年)頃に社中に入り、そのまま海援隊にも籍を置く。隊中唯一の佐幕論者だったため、討幕派の隊士とたびたび衝突していたという。特に、小谷は酔うと持論を展開したので、時には刀を抜く寸前ということもあったらしい。
 このため、ほかの隊士らより小谷の除名を迫られた竜馬は「一人の佐幕論者を同化出来ずに何が出来るのだ」と云い小谷をかばった。このためも小谷もさらに竜馬に心酔したという。
 また、いろは丸事件の際には船長しており、鞆や長崎での談判にも海援隊側として参加している。竜馬は紀州藩との交渉が成立し、そのことを隊士一同に知らせるよう依頼する手紙を小谷に送っている(慶応三年5月29日)。
 ただ、この後の記録はなく、消息は不明になっているが、竜馬が暗殺された後も海援隊として活躍したのではないかと思われる。ただ、佐幕派だったために、維新後政府の役人などにはなれなかったのではないだろうか。
 また、一般的には「こたに」と読まれているが土佐藩士池道之助の日記には「尾谷孝蔵」と書かれている事から「おたに」もしくは「おだに」と呼ばれていたかもしれない。

 それにしてもイデオロギー無視の竜馬は、ほんとうに自由人だったんだねぇ〜
(写真は海援隊旗)