元気になる!?「竜馬語録」(1)

 西日本に住んでいるので、東日本大震災のニュースで心痛め、無力さを感じる日々が続いていますが、被災された方々がいつの日かアクセスできたときに、少しでも元気になるのではないかと「竜馬語録」をセレクトしていくつか紹介していこうと思います。
 ただ、出所は明確ではなく「言葉」だけがひとり歩きしているものもあると思いますが、竜馬ならきっと云ったかもしれないことで紹介するものがあるかと思います。ご容赦ください。<(_ _)>

海援隊には役者もおれば、乞食もおるが、はらわただけはきれいだ」
 役者というのは、隊士の菅野 覚兵衛だったか!?(*調べます。訂正もあります)、(*放送コードに引っかかりそうだが・笑)乞食というのは、長崎の海援隊士のほとんどは慢性的な金欠状態だったために、竜馬がこう表現したのだろう。
 竜馬が云いたかったのは、(当時の)身分や服装は卑しいこともあったかもしれないが、志は高く仲間を思い、日本を思うココロは誰にも負けないということだったのではないかと思う。

【被災地では、商店からや放置されているクルマから略奪も横行しているとか。そんなことをするのはおそらく被害のない地域からの人たちの一部ではないかと思う(思いたい)。とても許される行為ではないのは云うまでもないが、そんな輩はきっと「はらわたも腐りきっているに違いない。」竜馬や海援隊士を見習って反省してもらいたいものだ。】

さなさんが結婚してた!?

道ばたの仏像

ちょっとショッキングなニュースが飛び込んできた。あの千葉道場の千葉さなが結婚していたというのだ。千葉さなといえば、これまでの通説としては、一生独身で竜馬とのことを訊かれると、「私は竜馬の妻です」と答え、さなが竜馬のために作った羽織の坂本家の家紋の切れ端を肌身離さずに死ぬまで持っていたという今では考えにくいほど一途な女性だったという美談(!?・笑)が伝えられていた。

(ニッカンスポーツ)によると、坂本龍馬の婚約者で生涯独身を貫いたとされる千葉さな(1838〜96年)が、龍馬の暗殺後、元鳥取藩士と結婚していたとする明治時代の新聞記事が、3日までに見つかった。とか。
 その新聞は、明治期に横浜で創刊された毎日新聞(現・毎日新聞とは無関係)で、1903(明治36)年8〜11月に連載した「千葉の名灸(きゅう)」という記事。さなが晩年、千住(東京都足立区)で営んだきゅう治院の来歴などを描いた連載記事で、さなの親族に取材して書かれたようだ。
 問題の10月4〜5日の記事によると、1873(明治6)年に横浜に移り住んださなが、定吉が剣術師範役を務めていた鳥取藩の元藩士山口菊次郎から求婚され、龍馬の七回忌も済んだことから受諾した。
 だが家格の低さもあり定吉が反対。「おまえの命はかつて龍馬の霊前にささげようとしたものではなかったのか」などと怒ってさなを切ろうとしたなどの出来事があったが、近くの商家が仲裁に入り、翌年7月に結婚した。というもの。
 この新聞を発見した歴史研究家あさくらゆうさんは、山口某が横浜に在住していたことなどから、信憑性が高いとしている。

【個人的にはちょっとショックだなぁ(笑。司馬遼太郎さんの「さな像」を支持していただけに、一途な女性像が崩れ去った感じ。まあ、冷静に考えれば、あの時代、家柄も正しい千葉さなが一生独身でいるというのも難しい話。ただ、もしかすると定吉のエピソードが一人歩きして、さな自身が語ったようになり、既婚者という重要な部分が欠落して美談として後世に伝わったのかもしれない。】

(※画像は近くの道ばたの祠の仏像。)

「大政奉還へ決死の手紙発見」の顛末…

いろは丸事件談判の地の碑

 竜馬の大きな功績のひとつは大政奉還」の実現にひと役買ったことだと思う。そのときの心情についての手紙の原本が従来、行方不明だったのだが、最近「見つかった」というニュースがあり、じつは密かに(笑、楽しみにしていた。
 その報道は「大政奉還の直前、坂本龍馬土佐藩重臣後藤象二郎に送った手紙の龍馬直筆の草案が、大阪市内のいの町の民家で見つかり、県立坂本龍馬記念館が15日から確認作業に入った」(読売新聞高知版)というもの。
 たしか、竜馬と大政奉還の概要は、竜馬の草案の手紙を後藤へ送り、藩主であった容堂公が幕府へ進言することから始まったといわれている。 
 手紙は縦20センチ・横78センチで、大政奉還前日の慶応3年(1867)10月13日付。内容は--大政奉還に失敗し「天下の大機会」を逃せば、薩長から責めを負わされる--と、緊迫した情勢を綴りながら、「もし失敗したら、私も海援隊を率いて将軍を襲う覚悟。墓の下でお目にかかりましょう」と決死の覚悟を伝えている。
 結果として、この手紙は精巧な写真(!?)複製だったのを18日に同記念館が発表した(読売新聞高知版)。


【結局は、この発見された手紙は複製だったのだが、記事では、原本は後藤象二郎の娘から海援隊員だった人物の長男に伝わり、その海援隊員の子孫が「原本はすでに手放した」と説明する1972年の手紙が添えられていたので、どこかに存在する可能性もあるとしている。時代が動いた手紙でもあるので、ひとめ原本を見てみたいもの。それにしても竜馬の当時の心情が分かる直筆の手紙で、後藤もその気持ちに動かされたのだろう。やっぱりEメールでは伝わらないかも……(笑)。(2ヶ月あまり更新ができずに申し訳ないですm(__)m)】
(※画像は広島県鞆の浦、いろは丸事件談判の地の碑で、現在は食事処になっている)

念願の「竜馬旅」…!?

いろは丸展示館

 もう1ヶ月以上も前の話で恐縮なのだが、引っ越しの移動途中で広島県福山市鞆の浦へ寄ってきた。ココでもこの地は何度か登場しているのだが、鞆の浦といえば、竜馬が海難事件にあって談判したといわれる場所で観光地でもある。一度は行ってみたかった地だったので、ようやく念願かなったというところだ。

 通称・いろは丸沈没事件のおさらい---1867年5月、竜馬は大洲藩籍のいろは丸に大坂に物資(鉄砲)を運ぶために長崎を出航。23日(26日)、紀州藩船明光丸と衝突し積荷もろとも沈没した。
 この衝突の場所が鞆の浦沖ということで、竜馬は鞆の浦に滞在して、「万国公法」を使い紀州藩と談判する予定だったが、ここではそのまま逃げられてしまい、その後長崎で談判となり、8万3526両198文紀州藩から賠償金を受け取る(竜馬は暗殺のため結局その賠償金を手にすることはなかった)。

 で、鞆の浦へはクルマで行ったのだが、ちょうどドラマの「竜馬伝」も始まっていたのと、日曜日ということもあって狭い漁師町は混雑していた。一度は街中の駐車場を探したのだが、まったく空いていないので、かなり手前の仮の駐車場に駐めるはめに。町の運営のようで、一日500円、街の中心へは送迎バス(無料)があるので、それを利用した。
 まず行ったのは、鞆城跡の鞆の浦歴史民族資料館一望に鞆の浦の港が見渡せる場所にあり、竜馬関連の資料などもあるのかと思ったのだが、そんな資料はなく、まさに民族資料館そのものであった(笑。
 次に探したのが、いろは丸展示館で、資料館からゆっくり西に歩いて20分程度の場所にある。港に突き出ている常夜燈が目印で、その手前数軒前にある。昔の土蔵を改築したような建物だ。沈没したいろは丸の調査をしたときの海底のいろは丸のジオラマが原寸大(!?)で展示されてあるのが目玉だろう。2階には竜馬の隠れ部屋(!?)も再現されてある。資料は思ったよりも少なく、拍子抜けするかもしれないが、一度は見ておいてソンはないとは思う。
 あとは、坂本龍馬宿泊跡、太田家住宅(鞆七卿落遺跡)、など一通りにチェックした(笑。急ぎ足ということもあったので、じっくり隅々までというわけには行かなかったのだが、それなりに満足して鞆の浦を後にした。


鞆の浦は、古い建物も残っていて観光地としては魅力があると思う。撮影好き、古い街好きにはたまらないかも(笑。竜馬好きとしては、かなり疑問符があるのだが、とりあえずのゆかりの地として押さえておいてソンはないとは思うが、必ず訪れる必要はなさそう(笑。そういえば、再現されたいろは丸の観光船も港から出ている(乗船はしなかったけど・笑)。そういえば、この地は平賀源内ゆかりの地だったり、宮崎駿さんが「崖の上のポニョ」の構想を練ったのもこの地だったそう。】
(※写真もそれなりに撮影したので、そのうちにいくつかアップする予定です。)
 

竜馬のコケシ型(!?)焼酎登場!

t-ryoma2010-03-18

竜馬関連の商品も巷にあふれてきているが、一過性とはいえフリークのひとりとしては、ユニークな関連商品はチェックしておきたいもの。そんな中で手頃な価格の焼酎が発売になった。

(J-CASTモノウォッチ)よると、発売になったのは、 菊水酒造は、ペットボトル入り麦焼酎「E-STYLE 龍馬」坂本龍馬を模したフィギュアをボトルキャップが使われている。ボトル部分は紋付はかまの着物をデザインしたラベルを巻いている。中身の焼酎は、すっきりとした味わいの麦焼酎(アルコール度数25度)。
 高知県内の酒店等と菊水酒造ネットショップでの販売となり、360ml入りで価格は1000円。


【ちょっとチープな匂いはするのだが(笑、コケシ型の竜馬のデザインがユニークかも。手も足も出ない感じがちょっと哀しいが……。高知のおみやげとしてもいいかも】

弥太郎の母のヘソクリみつかる!

シジュウカラ?

NHK龍馬伝でも登場している岩崎弥太郎(三菱グループ創始者)の母である美和ヘソクリ壺が発見されたそうだ。ドラマの中でもしっかり者として描かれているが、実際にコツコツと一文銭を貯めていたようだ。

(YOMIURI ONLINE)によると、見つけたのは高知県安芸市弥太郎の生家近くに住む会社員小谷哲也さん宅で、美和が高知を離れる際に、親しかった小谷さんの先祖に譲ったとされていた(壺の箱書きにこのいわれが書かれてあった)。
壺は地元の内原野焼で、高さ約30センチ、直径約20センチ。つぼには寛永通宝銭177枚が入っていた。高知市立歴史民俗資料館で今年の年末まで展示されている。


【ドラマでも美和が壺を床下から取り出すシーンがあったそうだが、かなり史実に近いとはいえそう。大財閥を築いた弥太郎の母がコツコツとヘソクリをしていたというのは、当時のしっかり者(主婦)というのはそうしたものだったのかもしれない。そういえば、あのドラマの弥太郎の家はものすごく貧乏に描かれているが、現在の三菱グループからは、「あまりに汚すぎる」という声が漏れ聞こえているらしいというニュースを最近読んだが、たしかに演出があるとはいえ、やりすぎのような気もする。それにしても、この美和のヘソクリも現代まで知らずに残っていたというのは、驚き! 後の三菱や岩崎家が探さなかったのかなぁ!? 】

竜馬とツーショットする!?

実家の庭で見た猫

 竜馬の銅像というのは全国各地にあるのだが、意外にも(じゃないかな!?・笑)ツーショットできる銅像というのは少ないと思う。そんな「竜馬ツーショット・マニア(笑)」の隠れたスポットが香川県琴平町旧伊予土佐街道沿いに建つ竜馬の銅像なのだとか。

(四国新聞)によると、この銅像にツーショット(3ショットも)写真が撮りやすいように、階段が新たに設置され、銅像のそばまで行けるようになったそうだ。
 この銅像の竜馬があるのは、金刀比羅宮への上り口に当たる牛屋口。瀬戸大橋開通翌年の1989年、運輸・旅行業の琴平バスが観光振興を目的に建立した。高さ2メートルほどの石積みの台座に、約3メートルの像が建っている。
 像の形は、懐に手を入れ、前かがみになって先を急ぐ姿で、竜馬が1861(文久元年)年に同街道を通って丸亀を訪れたとされることにちなんでいる。


1861年武市半平太が土佐勤皇党を結成した年で、竜馬も参加し、武市の密命で長州へ赴いたときにこの街道を通ったとされている。ツーショットしたいがためにこの地を訪れるのはちょっと厳しいかもしれないが、金比羅参り(笑)をするついでに立ち寄るのが一般的かな!? 個人的にはココも一度訪れてツーショットしたい!(笑。】